冷戦時代アメリカとソビエトの代理戦争として、ベトナムに於いて1960年~1975年くらいまで、北ベトナム(ベトナム民主共和国)・南ベトナム解放戦線(通称、べトコン)VS南ベトナム政府・アメリカとの戦争で韓国・タイや周辺諸国を巻き込んでいきました。
1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ中立の立場をとっていたがしだいに様々な状況から中立の立場は難しくなってきました。
アメリカは1969年3月から南ベトナム攻撃の拠点とする意味もあり、その時の国王であったシアヌークの南ベトナム解放戦線への支援を理由に、アメリカのニクソン・キッシンジャーの命を受けカンボジアを激しく攻撃しました。その時の死者は60万人~70万人で200万人以上の難民もでた。(カンボジアにおける第1次ホロコーストと呼ばれている)そしてシアヌーク政権を転覆さして、1970年ロン・ノル将軍による政権の支援を樹立させました。
シアヌークは国外に、1970年以前のカンボジア共産党(クメール・ルージュ)は小さな勢力でしたがシアヌークの支援を得、アメリカと対抗するためにポルポト率いるクメール・ルージュは次第に勢力を増してきます。そしてアメリカ支援・ロン・ノル政権VS中国支援・クメール・ルージュという構図の中、内戦へと突入していきます。
そして、ついに1975年ポル・ポト率いるクメール・ルージュは首都プノンペンを占領しポル・ポトが先遣の座に就きました。
1975年4月ロン・ノル政権、完全降伏
ポル・ポトは首都プノンペン周辺にあふれる300万人の難民をどうするかということと、毛沢東信仰による農村重視の政策をうけて“人間の改造”をおこないました。完全国民農業従事を実現して豊かな国づくりをしようとしました。実際は全市民の即時強制退去です。
決してポル・ポトも当初より、大量虐殺の方向に向いていた訳ではありませんでした。 ポル・ポトは知識人は余分な知識があって労働に適さない、ブルジョア階級の人間は金に執着があるので労働に適さないという考えにたどり着いたのです。
そこで、今までの支配階級、反政府の人たち、知識階級、ブルジョアの人間、たとえば教師、僧侶、医者、技術者、金持ち、それらの人間の抹殺計画を実行に移しました。はじめは当事者だけでしたが、しだいにエスカレートしていきます。その家族、女、子供、幼児にまで魔の手が及ぶようになる。挙句の果ては外国語をしゃべったから、メガネを掛けているからという理由でした。
その間に殺されたり、病気になったり、飢えて死ぬ人の数は300万人とも言われています。その時代のカンボジアの人口の3分の1が亡くなっているのです。 ポル・ポトは貧しい人間や労働階級の人間ばかり集めて政権の安定を図ろうとしたのでした。
クメール・ルージュが政権の座にあったのは1975年~1979年までの4年強で、ベトナム国境を越境し攻撃を仕掛けたことを機にベトナムから反撃にあい、ポル・ポトはプノンペンを追われタイ国境付近のジャングルへと逃げ延びました。そこで敗戦を味わったアメリカがベトナムを敵視するあまりに中国を介して間接的にクメール・ルージュに支援するのです。
中国もソビエトとの確執から続いてクメール・ルージュに武器・兵器を支援し続けました。
その時、日本もポル・ポト支援の形で動いていたのは周知の事実です。アメリカの影響もあり1980年にはカンボジア難民支援という形で運動があり、親サムリン政権から逃げたいと思っている人達の為にタイに難民キャンプを作りましたが、彼らの存在を利用してベトナムがカンボジアを支配しようとしている、ベトナムはひどい国であるということを国際社会に訴えるという、アメリカの思惑がありました。
1998年4月ポル・ポトが亡くなるまでクメール・ルージュは存在し、親サムリン政権のほとんどがクメール・ルージュの残党です。悲しいのは今現在でもクメール・ルージュによる政治介入は続いています。
今なお大量虐殺の真相は闇に葬られたままです。
1979年ベトナム軍のカンボジア侵攻をもって、公式の場ではポル・ポトの戦争は終結しました。
カンボジアに入ってきたベトナムの兵士たちは噂をはるかに超えた事実に震えたのです。
あまりにも酷い!あまりにも惨い!
この現状同じ国の人間同士がここまで惨いことができるのか?
あまりの悲惨さに立ち尽くす兵士が多くいました!
解放後、残った国民の85%が14歳以下の子供でした。
今言えることは大きな国同士の権力争いの中で、その大国の正義のために、何の罪もない小国が、その間のなかで苦しんでいます。
自国の利益の為に殺戮を繰り返してきた。それが間違っていることが分かっているのに大国に手を貸してしまう日本という国。
小国の市民や子供たちには何の罪もない!!
そういった国に操られ多くの犠牲者を出してしまう、壊すのは一瞬であるが元に戻すのには何年も何十年もかかってしまいます。全ての責任は私たちにもあるはずです。それを知ったならまず行動、実践をもって復興のために、少しでも協力しなければいけないと考えています。